日本建築家協会(JIA)東海支部の

機関紙ARCHITECT9月号に「自作自演246」として

「夢窓疎石の西芳寺を思い描く」を投稿

ここで紹介します

近ごろ日本庭園に興味をもち観たり考えたりする機会が多くなった。

最近の私の関心事は夢窓疎石による創建当時の京都西芳寺の姿である。

現在西芳寺は苔寺とよばれ、地面は一面の苔に覆われ、

森のように深い樹木に埋め尽くされ満足に見通しもきかない。

池の水面は木々の緑を映し、緑一色のモノトーンの世界となっている。

ところが夢窓疎石が創作した西芳寺の姿は全く違っていたようである。

西芳寺は暦応2年(1339年)に疎石が依頼を受け、

以前からあった浄土寺院を禅宗寺院として再興し中興開山となった寺である。

上下二段の庭園のうち下段の池泉庭園では川から水を導入して新たに黄金池をつくり、

楼閣建築の瑠璃殿や西来堂、譚北亭、湘南亭などの建築を配し

池には邀月橋をかけ植栽とあいまって華麗な景観をつくっていたという。

天皇も訪れ花見の宴で舟遊びをし、足利将軍家もたびたび訪れたという。

これを見た朝鮮の使節は

「その清浄高妙の致、懐(こころ)に往来し、寝てもねつかれず」

と書き残している。

三代将軍義満は瑠璃殿にならって金閣を北山殿の中心に据えた。

二層の瑠璃殿のデザインを借用して金箔貼の三層にしたのは

日本国王として対外的な示威のためであろう。

八代義政も何度も訪れ研究しつくして東山殿をつくった、

諸堂の名称も西芳寺にならって付けられたといわれる。

これほど注目された西芳寺庭園、当時の姿をみたいものである。

銀閣寺庭園も現在は江戸時代の改修後の姿で、

今に残る建物は銀閣、東求堂のみで、しかも東求堂は移設され、

砂の造形である向月台や銀沙灘が追加されており創建当初の姿をとどめていない。

 

疎石が滞在して庭や諸堂をつくったといわれる多治見永保寺庭園。

池に架かる無際橋はいわゆる亭橋(中央に小亭があり一休みできる橋)で

西芳寺には邀月橋があり東山殿にもあった。

この永保寺の景観が疎石の時代の雰囲気を持っている。