岐阜日本建築ランドスケープ環境・景観アトリエひとりごと
下の鐘楼は昭和6年に焼失し昭和11年に再建された
下は金毘羅堂と多宝塔が現れたところ
この塔は須弥壇銘により1194(建久5)年とされている
プロポーションは石山寺のものに近い
尾垂木の木鼻も純粋な大仏様にちかいデザインとなっている
境内からみる美濃の国の山々
関市域は「兎の顔」 「兎の右の耳」にある日龍峯寺多宝塔は鎌倉期の名多宝塔
日龍峯寺の現在の行政所轄は関市で
この地域が2005年に関市に編入される前は
武儀郡下之保村という地名であった
関市中心部から東北に突き出た部分にあたる
同じ時期にもう一つ西北に突き出た部分で
板取川を囲む地域も関市に編入された
その結果関市域は左右に大きな耳をもつ
「兎の顔」のような市域となった
新しく編入された「兎の耳」の部分は
ほとんが山間部であり
「西北(左)の耳」は板取川を中心として
また「東北(右)の耳」は津保川を中心として
風光明媚な観光地が点在する
ついでの話ですが
その左右の耳に挟まれた部分に美濃市がある
寺伝によると仁徳天皇(5世紀前半・・・仏教伝来以前)の時代に
飛騨の国の豪族主が
「神龍住みて近郷の村人に危害を及ぼす」と聞き
この神龍を退散させこの峰に寺を
開創したのが始まりという
鎌倉尼将軍の御代の旱魃のとき
北条政子(1157~1225、鎌倉将軍初代源頼朝の正妻)が
ある夜の夢想のとおり供養すると
たちまちにして霊雨あったという
そお謝礼として将軍家により七堂伽藍が再興されたといい
(下配置図)現在残る多宝塔はその時の建立といわれる
境内は高澤山山頂に近くの等高線に沿った
細長い敷地に不等間隔に配置されている
密教寺院
庫裏は伽藍が建つ等高線の一段下の平地に建つ
伽藍は駐車場の関係で
本来とは逆方向にすすむ
下の鐘楼は昭和6年に焼失し昭和11年に再建された
鐘楼から先は不等間隔に不動堂
薬師堂 金毘羅堂 多宝塔とつづく
下は金毘羅堂と多宝塔が現れたところ
(下写真)金毘羅堂と多宝塔
多宝塔はこの角度からみる姿が最も美しい
多宝塔は室町時代のものが多く残されているが
鎌倉期のものは少ない
現在唯一国宝に指定されている石山寺多宝塔は
北条政子の夫である源頼朝が寄進したといわれる
この塔は須弥壇銘により1194(建久5)年とされている
日龍峯寺の塔は軒の出が深く
プロポーションは石山寺のものに近い
(下写真)軒下組み物も蟇股は古式(平安後期~)を示す透かし蟇股
尾垂木の木鼻も純粋な大仏様にちかいデザインとなっている