日龍峯寺の現在の行政所轄は関市で

この地域が2005年に関市に編入される前は

武儀郡下之保村という地名であった

関市中心部から東北に突き出た部分にあたる

同じ時期にもう一つ西北に突き出た部分で

板取川を囲む地域も関市に編入された

その結果関市域は左右に大きな耳をもつ

「兎の顔」のような市域となった

新しく編入された「兎の耳」の部分は

ほとんが山間部であり

「西北(左)の耳」は板取川を中心として

また「東北(右)の耳」は津保川を中心として

風光明媚な観光地が点在する

ついでの話ですが

その左右の耳に挟まれた部分に美濃市がある

 

寺伝によると仁徳天皇(5世紀前半・・・仏教伝来以前)の時代に

飛騨の国の豪族主が

「神龍住みて近郷の村人に危害を及ぼす」と聞き

この神龍を退散させこの峰に寺を

開創したのが始まりという

鎌倉尼将軍の御代の旱魃のとき

北条政子(1157~1225、鎌倉将軍初代源頼朝の正妻)が

ある夜の夢想のとおり供養すると

たちまちにして霊雨あったという

そお謝礼として将軍家により七堂伽藍が再興されたといい

(下配置図)現在残る多宝塔はその時の建立といわれる

境内は高澤山山頂に近くの等高線に沿った

細長い敷地に不等間隔に配置されている

密教寺院

庫裏は伽藍が建つ等高線の一段下の平地に建つ

 

伽藍は駐車場の関係で

本来とは逆方向にすすむ

下の鐘楼は昭和6年に焼失し昭和11年に再建された

 

鐘楼から先は不等間隔に不動堂

薬師堂 金毘羅堂 多宝塔とつづく

下は金毘羅堂と多宝塔が現れたところ

 

(下写真)金毘羅堂と多宝塔

多宝塔はこの角度からみる姿が最も美しい

多宝塔は室町時代のものが多く残されているが

鎌倉期のものは少ない

現在唯一国宝に指定されている石山寺多宝塔は

北条政子の夫である源頼朝が寄進したといわれる

この塔は須弥壇銘により1194(建久5)年とされている

 

日龍峯寺の塔は軒の出が深く

プロポーションは石山寺のものに近い

 

 

 

(下写真)軒下組み物も蟇股は古式(平安後期~)を示す透かし蟇股

尾垂木の木鼻も純粋な大仏様にちかいデザインとなっている

 

境内からみる美濃の国の山々